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2009年09月22日

「大衆」と「一般人」、あるいはNAPは誰をターゲットとすべきか(長文記事)

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 ◆はじめに


 ぶつぶつぶつぶつ。こんにちは。夏バテにアートバテ、風邪気味、二日酔い、自己嫌悪、睡眠不足、格差社会に女難の相まで重なって絶不調の中村ケイタロウです。この文章は、毎秒メガ不機嫌モード・ドルビー・サラウンド放送でお送りしております。ぶつぶつぶつぶつ。「おーほほほほ。バカね。現代美術なんて誰も見ないわよ」と、不意に悪魔の声が……ぶつぶつ……

 さて、先日の記事でもお伝えしたように、9月6日の公開会議は成功のうちに終りました。討論の時間を充分に取れなかったのは残念なことでしたが、短い質疑応答の間にも、いくつか重要な課題が提起されたと思います。
 中でも、「NAPは誰をターゲットにするのか」という課題は、僕にはとても重要に思えました。
 今回は、そのことについて、僕個人の意見を少し書かせていただきます。

 6日は、「公開」会議というイベントの性格もあってか、聴衆の皆さんの中からは、「玄人を対象に分かりにくいことをするのではなく、開かれたものにすべきだ」「敷居を下げて、一般市民が気軽に近づけるイベントに」というご意見が多かったように思います。そして、これは僕の解釈に過ぎませんが、ゲストの乾さんも、どちらかと言うとそれに近い立場を取っていらっしゃるようにお見受けしました。

 その一方で、「プロの批評家による批評の場を奈良に作る」「大衆には迎合しないで、エキスパートが見据える地平に存在する」という理念もまた、NAPの重要な柱の一つであると、僕は思います。

「一般の人々に開かれてあるべきだ」という立場と、
「大衆に迎合すべきではない」という立場。

 どちらの立場にも賛成、というのが、今の時点での僕の考えです。


 このように微妙で難しい問題に関して、非才もKYも省みずあえてこのブログで発言しようと考えたのは、僕が現代美術の外部にいる人間だからです。美術という世界の前で、美術作家でも批評家でもギャラリストでもない、全くのアウトサイダーの僕は、まさしく「一般の人々」のひとりであるからです。そのような人間の声が、NAPの中にあってもいいんじゃないかな。ぶつぶつ……

 ともあれ、素人が言ってることですので、アートにたずさわっていらっしゃる皆様にはあまり真剣に耳をお傾けにならず、読み流してくださればありがたいです。また、やたらと長文になってしまいましたので、「つまらん」とお思いになったら、そこで読むのをやめてくださいね。



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 ◆SIDE-A「大衆など、いない」



「一般の人々に開かれてあるべきだ」という立場と、
「大衆に迎合すべきではない」という立場。
 二つの立場の、両方に賛成。
 妥協的・折衷的な意味でなく、どちらにも積極的に賛成
「だけど」も「ただし」も「しかし」も抜きで、二つの立場を統合できる。

 僕がそう考えるのは、「大衆」と「一般の人々」とは、同じではないと思っているからです。


 そもそも、「大衆」とは誰でしょう?

 「大衆」という人がどこかにいるのでしょうか。たとえば同じ電車に乗り合わせた人々の中から、「あの人は大衆」「あの人は大衆じゃない」と指差して数えることができるものか?

 そんな問いは無意味でしょう。
「大衆」というのは、社会の大半の人々を、均質なひとつの集団と便宜的にみなした上で仮構された、架空の概念だと僕は考えます。
 それは、何千万人という人々の中から、大多数に共通する要素だけを抽出した、言わば、最大公約数の人間像です。その際、ひとりひとりの個性や特質などは、「誤差」あるいは「ノイズ」として無視されるのです。

 そのようにして作られた人間像には、たしかにある程度のリアリティーがあるようです。現に、政治家やマスメディアや商業資本は、人間を流れる砂のように均質な「大衆」と見なして流体力学的に把握し、そういった像を相手に仕事をしています。

 それはなぜか?
 おそらく、それが最も効率的だから。


 統計学的レベルの人数を扱う時には、個を無視した近似的モデルによるシミュレーションこそが有効なのでしょう。事実、彼らは成果を上げています。

 しかし、ひとりひとりの人間と真剣に向き合おうとするとき、そのような仮想の人間像は、われわれの視野から消え去るのではないでしょうか。
 たとえば、経済的・社会的にごく平均的な境遇にある数千万人の中から、数人を無作為に取り出してみたとします。マーケットやメディアや政治の論理では「大衆」に含まれると考えられる人々です。
 しかし、その一人一人と差し向かいでじっくりと話しあい、人柄や価値観を掘り下げていったとすれば、どうでしょう?
 育った環境も性格も風貌も年齢もそれぞれちがう彼らは、理解を深めるうちに、次第に個々のかけがえのない「宮城県の吉村さん」、「山口県の町田さん」、「奈良県の中村さん」としての姿を見せ始めるはずなのではないでしょうか。
 彼らひとりひとりは、確かに「一般の人」ではありますが、決して「大衆」ではない。ベージュ色に見える砂の粒の一つ一つが、拡大鏡で見れば色とりどりの鉱物のかけらであるのと同じように、個人個人に目を向けてみると、「大衆」の姿は消えてしまう。
 「大衆」なんて、実はどこにもいないのです。


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(鳥取砂丘。砂の中に、砂丘は無い。膨大な砂の中に、同じ色、同じ形の砂粒はふたつと無い。……たぶんね。知らんけど)


 NAPがやろうとしていることは、選挙でもないし、マーケティングでもありません。われわれが企画しているのは、効率を最優先とする事業ではない。ならば、私たちは、「大衆」などといったものは存在しないと考えるべきなのではないでしょうか。

「大衆」など存在しない。存在するのは人間だけ。

 そう考えるならば、実在しない相手に対して迎合する必要など無いことは言うまでもありません。
「大衆」への迎合を意図した創作物やイベントがどのような代物であるか、現代に生きる私たちは嫌というほど見聞きしてきているはずです。その種のものは、たしかに誰にとっても口当たりは良い。だけど誰一人として、それを深いところまで受け入れはしません。
 NAPがあえてその轍を踏むことはありません。



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 ◆SIDE-B 「私が大衆だ」



 しかしまた、以上に申し上げたことを裏返せば、あらゆる人の中に、公約数で割り切れる「大衆」の部分と、「大衆」ではない余りの部分とが不即不離に並存しているのだとも言えそうです。

 たとえば僕は、今でこそこういう形でNAP実行委に参加させていただいて、「アートってさあ、やっぱさあ、コンセプトが命じゃん?」なんて語ったりもしています(嘘ですけど)。
 しかし、ほんの数年前までの僕は、現代美術について何も知らず、関心も無く、たまに目にしても「あんなの誰でも作れる」「美しくない」「誰も理解できない作品に何の意味がある?」ぐらいにしか思っていませんでした。
 今のように現代美術展に足を運んだり、現代美術イベントの準備に参加しようとまで思うようになったのは、詳細は省きますが、人との出会いによる個人的なきっかけからでした。

 では、それによって、僕の中に現代美術のレセプターが生じたのでしょうか?
 そうは思いません。現代美術を楽しむようになっても、僕自身は何も変わっていません。ただ、立っている位置が少し変わっただけです。アートという山の稜線しか見えない場所から、山の向こうに広がる大地の片鱗が垣間見える場所に。

 しかしその一方で、僕は今でも、社会・経済・政治に関することについては通り一遍の感想しか言えません。テレビの前で、「のりピーって清純イメージやったのになあ」とか「総理のくせに漢字もよう読まんのか」とか「アメリカ企業の重役はジェット機持っとるらしいで」などとつぶやくとき、僕はまぎれもなく、「大衆」の一部です。

 自分の頭で考え、自分の言葉で語る。
 情報の砂嵐の中で生きる現代の私たちにとって、それは口で言うほどたやすいことではないのかも知れません。政治のスローガンが、商業主義の常套句が、メディアの決まり文句が、どこからか私たちの頭の中にちりちりとまぎれこみ、唇の間からほろほろとこぼれ落ちます。「政権交代」だとか、「秋コスメ」だとか、「紀香バディ」だとか、「格差社会」だとか、そんな言葉が。

 私たちは、本当は誰一人として「大衆」などではないのに、社会のさまざまな場面において、意識的/無意識的に「大衆」を演じ、「大衆」の言葉でおしゃべりをしてしまう。それもまた事実なのです。

 なぜそんなことになるのか?
 おそらく、それが最も効率的だから。


 膨大な情報をやり過ごし、異なる価値観をもつ人々と摩擦を起こさずにつきあうには、便宜的に「大衆」として振舞うことはたしかに有効です。

 皆さんも、アート以外の、あまり興味の持てない分野の話題を(本当は傾聴に値するものであったかも知れないにもかかわらず)、半ば自動的に「大衆」のフリをして聞き流してしまった経験がありませんか? 僕はあります。
 それこそが、本来は仮想に過ぎない「大衆」が実体となる瞬間です。このような小さな種子が無数に絶え間なく生起することによって、架空の存在であったはずの「大衆」が砂の巨人となって現実に立ちあがるのです。

 だとすれば、現代美術に対して「大衆」レベル以上の興味を示さない人々を、「彼らはアートとは無縁の大衆だ」と切り捨ててしまうわけにはいかないはずです。

 僕がアートというものに喜びと可能性を感じるのは、それが自分の中の「大衆」ではない部分を刺激し、呼び覚ましてくれるものだからです。思いがけない気づきと問いかけによって、「大衆」として生きる日常とは違った角度からの世界像を見せてくれるものだからです。そしてそれこそが、アートが本質的に持っている、最も重要な機能なのではないでしょうか。(それゆえに、私たちにとってアートは、日常の基盤を掘り崩しかねない危険物でもあります。このことについては、どこかでいつか書きたいと思っています)

 ならば、NAPのターゲットは、「大衆」などではあり得ません。

 NAPは、たとえ何万の「一般の人々」の波を前にしても、それらの人々を「大衆」としてひとくくりにすることはせず、個々人の中にある「大衆」でない部分に働きかけようと試みるべきだと、僕は思います。

 そしてNAPは、他ならぬその「一般の人々」を主な対象としてゆくべきだと、僕は考えます。

 アートは必ずしも、すでにアートに「目覚め」ている人々のものではないはずです。いえ、むしろ、一般の人々の中にある、「大衆」ではない部分を刺激し活性化するのでなければ、いったい何のためのアートでしょう?

 もちろん、NAPが、最先端の人々によって評価されるレベルを目指すことを、僕は支持します。またそのためにプロの批評家と作家との出会いの機会をつくることにも、僕は賛成です。作家も鑑賞者も、作品の水準の向上を望んでいるべきはずですし、それはアートという空間全体に対する寄与にもなり得るでしょうから。

 しかし、たとえ方向性としては専門的な批評家の見据える座標をターゲットとするにしても、「批評家やアート関連メディアを、NAPの主な標的にすべき」だとは、僕は考えていません。

 批評家やメディアといったプロフェッショナルな業界の方々との接触はあくまでも、参加作家に創作上のヒントやフィードバックをもたらしたり、奈良における芸術的活動を広く知ってもらったりするための戦略的な手段に過ぎないと僕は思います。それは、たしかにアートにたずさわる皆さんにとって重要なことではありますが、アートそのものの本質に直接かかわるものではないはずです。



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 ◆むすび



 数年前の僕のような人間を、現代美術に引きこむイベント。

「現代美術は開かれたものであるべきだ」と言う人には、現代美術はもうすでに、そもそものはじめから、他のどんな表現ジャンルよりも広く開かれているのだということを示すイベント。

「現代美術は分からない」と言う人には、その「分からない」ところにとどまることの刺激的な楽しさや、何ひとつ「分からない」ままで全てが「腑に落ちる」ことを体験させてくれるようなイベント。

 自動的に「大衆」として振舞いがちな私たちをつまずかせ、立ち止まらせ、時には転倒させ、我に返らせるようなイベント。

 そして、訪れた多くの人々が、奈良は決して「奈良」などではなくて、本当は奈良であったことに気づく……。

 NAPにはそのようなものであって欲しい。いかなる意味でも「アートピープル」ではない、ひとりの一般人として僕はそう願います。

「大衆」に決して迎合することなく、しかも「一般の人」に向かって広く開かれていること。それこそが、NAPが単なる「現代美術展」でも単なる「イベント」でもなく、「現代アートイベント」であることの意義であると考えるからです。

 みなさんいかがお考えになりますでしょうか?




(以上、文責は全て中村にあります。以上の内容がNAP実行委の総意としての見解ではないことをご理解ください。いかなる意味でも「アートピープル」ではない僕のようなものにブログでの執筆を許してくださっている実行委に感謝いたします)

 中村ケイタロウ
http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/


posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 06:16| Comment(7) | 奈良アートプロムについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月17日

プレイベントNAP公開会議vol.1のご報告

 去る9月6日、アートスペース上三条において、第一回プレイベント・NAP公開会議vol.1が開かれました。
 予想を上回る55名もの来場者にお越しいただき、アートへの思いと熱気に満ちた雰囲気の中、大きなトラブルも無く、今回の公開会議は無事成功を収めたと申し上げてもいいかと思います。

 当日の経過と内容について、以下に簡単にご報告いたします。

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 第1部では、奈良県立図書情報館企画広報担当の乾聰一郎氏をゲストにお迎えしました。まず実行委員会代表野村ヨシノリからNAPの概要説明、参加アーティストの紹介などのプレゼンテーションを行った上で、乾さんからのご感想、ご提言を頂戴しました。
 乾さんのお話を、以下に要約させていただきます。

1.「今の奈良には、文化財はあっても『文化』が無い」と言われることがある。そんな状況の中で、NAPがやろうとしている事が新しい「文化」になっていって欲しい。

2.「町おこし」とは、つまるところ「人作り」に他ならない。NAPには、それに関わる人たちが、街や生活を豊かにし、文化発信の意識を芽生えさせ、体験を通して成長する契機となることを期待したい。

3.現代美術というのは敷居の高いものであるが、その高さを感じさせず、どれだけ低く見せられる工夫が出来るか、それが成功の秘訣だと思う。

4.そのために、たとえば地元住民や商店街の人たちに参加してもらい、奈良に来た人たちが、NAPが開催されている事にすぐに気づくような仕掛け作ってみてはどうか。例えば、民家の軒先に何かを飾るとか。


 行政の立場から地域文化の創造や発信に関与してこられた乾さんは、「創造的な実務家」とでも言うべき雰囲気をお持ちの方で、ともすれば観念的になりがちなアートをめぐる議論を地に足のついたものにしてくださいました。私たちスタッフも、今後の準備や運営のためのヒントをたくさんいただけたと思います。


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 第2部では、スタッフと乾さん、さらに一般の来場者のみなさんを交えたディスカッションを行いました。来場者の方との質疑応答の一部をご紹介します。

 来場者からのご質問:NAPが求めている着地点は、どこなのか?

 実行委員会からの返答:一般の人や子ども達にも分かりやすい展示やイベントは確かに必要だが、現代美術の先端で活動する人やエキスパートの人たちの見据えている地平線上にNAPは存在していたいと思う。


 来場者からのご意見:NAPが批評の場にもなるという事だが、その批評を何を媒体にして発信して行こうとして考えているのか? 事後報告というタイムラグがある発信だけではなく、現場でリアルタイムにインターネットを使って発信して行ってはどうか。


 残念なことに、ディスカッションのための時間を30分足らずしか取ることができず、せっかく盛り上がりかけた議論を未消化のままで終わらせざるを得ませんでした。もっと多くの方のご意見をうかがいたかったのですが……。これは次回への反省点になりました。




 第3部では、フランス・シター奏者いいだむつみさんと、パフォーマンスアーティストmachi/さんによる、即興サウンドパフォーマンスが行われました。

 パフォーマンスの前半は、いいださんによるシターのソロ演奏。
 シターは、日本ではまだ珍しい、ピアノの先祖の先祖にあたるような弦楽器。ヨーロッパでは古来、教会音楽のために用いられてきたそうです。古風な楽器なので音量はあまり大きくありませんが、その音色は荘厳で清楚、まさに神聖な場での演奏にふさわしいものでした。水を打ったように静まり返ったギャラリーの中で、目を閉じて聴いていると、光の流れによって心身が浄化されるという、なにやらキリスト教的なヴィジョンが脳裏に浮かんできました。

 後半に入ると雰囲気は一転。シターと共に東洋的な打楽器も用いて、古代的・儀式的な即興演奏が始まります。音楽に誘われるように、赤いセロファンを身にまとったmachi/さんが登場。
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 いえ、これはもはやmachi/さんではありません。なにやら赤いものとしか言いようがありません……。
 燃える炎のような、荒れ狂う血みどろの獣のような赤いものは、いいださんの奏でる音楽との対話を重ねながら、その表情を次々に変えます。
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 情念や業の具現のようだった赤いものは、会場を這い回り、うごめき、もだえ、やがてまるで鎮魂の儀式のように鎮められ、浄化されてゆきます。

 二人のパフォーマンスを見ていて私が思い起こしたのは、バリ島のチャロンアラン劇でした。バリ島のダンスや演劇は、単なる芸能ではなく、それ自体がトランス状態を引き起こす儀式でもあります。
 チャロンアラン劇の主人公は、チャロン・アラン(「未亡人」の意)と呼ばれる魔女ランダ(画像)です。鋭い爪と牙、長い舌、垂れた乳房を持つランダは、女性や母親の持つ恐ろしい側面を象徴するようなキャラクターで、わが子への愛情故に疫病を巻き起こして大勢の人々を殺めるのですが、最後は王命を受けた高僧によって殺されます。
 面白いことに、高僧はランダを殺しておいてから一旦生き返らせ、説いて聞かせるのです。
「死ぬことはたやすい、チャロン・アランよ。しかし、清浄でない死には何の意味も無い。死の前に、私がお前の魂を清めてやろう」(Pramoedya Ananta Toer "Dongeng Calon Arang"より)
 何千人を死に至らしめた罪を清められてから死ねると知ったランダは喜び、高僧の教えを受けて正しい心を取り戻したあと、従容として儀式的な死を迎えます。罪業に満ちた生は、ランダにとって苦しみであり、死による浄化は救済の儀式にほかならなかったのです。

 machi/さんの扮していた赤いものは、必ずしもランダのように罪に苦しんでいるようではありませんでしたが、やはり深い業を抱えた存在に見えました。
 それに加えて、ガムランを想起させる打楽器の音色や、儀式による浄化や安らぎを思わせる展開のイメージが、私にチャロンアラン劇を連想させたのでしょう。奈良盆地とバリ島の村々の雰囲気には、以前からどこか似たものを感じていたりしてもいたので、その連想が余計に興味深く思えたのでした。


 そして、パフォーマンスの余韻(と、散らばった赤セロファン)の残る中、プレイベントは4時に終了しました。
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 今回、多くの来場者をお迎えして、皆さんがNAPに寄せてくださっている関心と期待の大きさをひしひしと感じました。そして、さまざまなヒントと反省点を得ることが出来たのと同時に、NAPはもはや夢でも幻でもなく、第一回の実現に向かって確実に動いているプロジェクトなのだということを、末端の一スタッフの立場からも、初めて身をもって実感出来たように思います。
 ご協力くださった方々、ご来場いただいた皆様には、厚く御礼を申し上げます。まことにありがとうございました。

【次回予告】
 第二回プレイベントは、12月1日から6日にかけて、大阪南港のCASOにおいて行われる予定です(詳細はこちら)。引き続きましてのご支援、ご参加の程、よろしくお願い申し上げます。


 中村ケイタロウ
http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/

posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 20:58| Comment(1) | 奈良アートプロムについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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