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2010年10月17日

〔1300年の記憶〕NAP本部の夜の夢(最終回)

第一回第二回第三回までのあらすじ

「飢えた子供の前でNAPは有効か?」サルトルみたいな疑問を抱いた実行委員『ナカムラ』は、突然現れた『小悪魔』によって、十二世紀の奈良へ連れてゆかれる。そこは『平家物語』の時代。平家の軍勢が奈良を焦土と化するのを目にした『ナカムラ』。コミカルさを忘れ、作者の精神的疲労に比例して残酷になってゆく物語は、果たして救済されるのか? 誰も読まない連載、会期後になっていよいよ最終回。



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 気が付くと、僕はNAP本部のパソコンの前にいた。窓から差す光がまぶしい。もう朝だった。
「……夢だったのか……?」
「そうよ。なにもかも現実。ただ春の夜の夢の如し」
『小悪魔』が言う。彼女は普通の女性の大きさになって、パソコンデスクに腰かけていた。
「ね、二人でアートイベントでも見に行かない? この季節、アートイベントはデートにぴったり。奈良町にも素敵なカフェが増えたし、お茶くらいならおごるわよ」
「アートイベント?」
「題して、『奈良アートプロム1192 古典パンダン展』。会期はもう、かれこれ八百年くらい続いてるのかな」
 本部のドアを開け、もちいどのセンター街への階段を下りてゆく『小悪魔』に、僕はふらふらとついてゆく。
 大きくなっても『小悪魔』は小柄だ。身長は150センチくらいだろうか。後ろ姿の肩が細い。
「キミも見てきた通り、1180年12月28日に、奈良の町は壊滅したの。『平家物語』によると、大仏殿の二階で焼け死んだのは1700余人、興福寺では800余人、ぜんぶで3500余人だって。そんで、戦死した僧兵は1000人以上。誰が数えたのか知んないけど、とにかくすごい数だよね黒ハートご苦労さま。うふふふ」
 話しながら『小悪魔』は、もちいどのセンター街を北へ進み、お餅屋さんの丁字路で三条通りを東へ折れる。
 2010年10月の猿沢池。浴衣に丹前の観光客が朝の散歩をしている。

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「奈良が滅びるのといっしょに、『古代』が死んだ。平家を倒した源氏が鎌倉に幕府を開き、新しい秩序が始まる。つまり『中世』ね。そして、中世の始まりとともに、焼け野が原の奈良で、アートの新しい時代が始まるの」
 猿沢池から南円堂への石段を、『小悪魔』に導かれるまま、途中で左へ曲がると、そこには小さな三重の塔があった。
「見て、これが、『奈良アートプロム1192 古典パンダン展』出展作品のひとつ。どう? ステキでしょ?」

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▲「興福寺三重塔。可愛いでしょ。時々ここに来てぼんやりするの。静かなんだ。五重塔ばっかり目立っちゃって、みんなあんまりこっちには来ないから」

 源氏による平家政権の覆滅で戦争が終結すると、朝廷、藤原氏、生まれて間もない鎌倉幕府から、名も無き民衆まで、多くの人々の力によって、奈良の寺社の再建が始まる。 
 立体アーティスト集団『慶派』を率いる運慶と快慶、中国出身の石彫アーティスト・伊行末、大仏再建のチーフである中国人エンジニア陳和卿、そして、日本史上最初で最大のアートディレクター・俊乗坊重源。国内外の優れた芸術家、建築家、工匠たちが集結した奈良は、一躍、日本のアートの中心地になった。まさに、焼跡の灰の上に生まれた『盆地フロンティア』。鎌倉時代初頭の奈良はそんな場所だった。
 新時代の新しいアートがつぎつぎに誕生する。そしてその多くを、現在でも目にすることが出来るのだ。


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▲「興福寺北円堂よ。普段は柵越しにしか見れないんだけど、それがいいんだ。上品で、孤高。ちょっと手のとどかない感じ?」

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▲「たしか、キミが奈良でいちばん好きな建物だって言ってたよね。東大寺南大門。これも出展作品。当時誰も見たことの無かった斬新なスタイル。シンプルで、合理的で、力強くて、ミニマル。内部の構造なんて、ほとんど現代建築みたいでしょ」

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▲「この国の彫刻史の代表作が、博物館にも美術館にも入れられずに、24時間、無料で、ガラスも無しに見ることができるなんて、信じられないよね。金剛力士像。これも出展作品」

(リンク先:東大寺南大門石造獅子)
▲「国際展だから、海外アーティストの出展もあるよ。上のリンク先を見て。これは、中国の伊行末の作品。エギゾチックで大胆で、でもよく見ると、ディティールはびっくりするほど繊細なの」


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▲「あの大火災の火元の目の前にある般若寺の、楼門。これも出展作品。それから、門の向こうに見える石の塔は、さっきの獅子と同じ、伊行末のグループの作品。彼のグループはその後もずっと日本で活動をつづけたの」


「どう? ほかにも、このときに作られたアートはいっぱいあるんだよ。破滅のあとには、それを埋め合わせるみたいにアートが生まれるの。それがキミたち人間の文化の歴史なの」

 石塔の下に座って、僕はつぶやく。
「でも……それでいいのか?」
「何が?」
「あれだけ多くの人々が、無意味に苦しみ、死んでいったんだ。それを、『アートの花が咲きました。めでたしめでたし』で片付けてしまっていいのか?」
 僕の隣に座ると、『小悪魔』は白い両手を組み合わせて、キリスト教の礼拝のポーズをした。
「アートはね、祈りの形なの。昔はもっとはっきりと、そうだった。今でも、本当はそうなのよ」
「祈り? 祈りなんて欺瞞だよ。そもそも、古代の奈良を灰にした責任は、無謀な戦争を起した僧兵たちにあるんじゃないか。僧兵と言えば、坊さんじゃないか。何千もの人間を死なせといて、『あやまちはくりかえしません』とか言って、坊さんたちが金をつぎ込んで仏像をつくって拝んで、それでチャラになるっていうのか?」
「チャラにもUAにもならないわよ、もちろん。死んだ人は帰って来ない。生き残った人はやがて忘れる。そしてまた同じことが起こる。もっとひどい形で起こる。ドレスデンで、長崎で」
「そんなの……意味無いじゃないか」
「もちろん、意味なんて無いよ。人間の生も歴史も、自然の営みの一部でしかないんだもの。意味なんて求めるのは、キミたち人間だけ。ネコという種がマタタビを好むように、ヒトという種は意味を好む。どちらも、生きるためには何の役にも立たないのにね」
「……」
「祈りっていうのはね、あたしたちから見れば、うめき声なの。人間の生は、痛みばかり。そう思わない人は、ただ忘れてるだけ。痛みに気づいた人は、耐え切れずに、うめき声を上げる。宗教や芸術は、個人の意志を越えた、人類全体のうめき声なの。だから、それは宿命的に美しい。異物に対する貝の防御反応が生む、真珠と同じように、美しい。この世の全ての残酷とひきかえに、美しい」

『小悪魔』は語る。世界は痛みに満ちている。痛みは人々にうめき声を上げさせ、うめき声はやがて祈りとなり、誓いとなり、美となる。しかしそれは、決して叶うことの無い祈りだ。必ず破られる誓いだ。永遠の生命を持たない美だ。いつかまた、人間は人間を裏切り、再び全てが灰燼に帰する日が来る。それでも、人類が終わる日まで、人間はアートを作りつづける。なぜなら――

「――なぜなら、それが、キミたち人間だからよ。キミたち人間は、そういうふうに生まれて、そういうふうに生きて死ぬの。あたしは、そんな愚かで無意味なキミたちが好き。たまらなく好きよ」




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「……さあ、最後にもう一箇所だけ。実は、お寺とかじゃないんだけど」
「カフェか何か?」
「ううん、あたしのアトリエ。えへへハートたち(複数ハート)

 アトリエ??

 連れて行かれた場所は、たしかにアトリエだった。
 そこで見たのは……とにかく素晴らしい作品だった、としか言えない。心が震え、体が震えた。
 焼跡の光景も何もかも瞬時に忘れて、僕は思わず両手を合わせ、神仏に祈るみたいに『小悪魔』に頭を下げた。
「これをNAPに出展してくれませんか? グループ展でも、コテンパンダン展でも、なんでもいい。こんな素晴らしい作品が出展されたら、NAPは間違い無く成功するよ。たとえ地図が間違いだらけでも、広報が後手後手でも――」
「えへへー、どうしよっかなー。自信無いなー」
「もったいないよ。すごい才能だ。人に見せないと。この奈良で公開しないと。あまりにも惜しいよ。ほんとうは出す気なんだろ? そのために、実行委員の僕に見せたんじゃないのか?」
「そうね……。オッケー。じゃあ、出してあげてもいいけど、条件があるの」
『小悪魔』が白い指で空中に四角を描くと、青い炎とともに一枚の書類が現れる。古めかしい羊皮紙に、ラテン語で何か書かれていた。
 そして彼女は、100円ショップダイソーで売っているボールペンを僕に差し出す。
「ローマ字かヘブライ語でサインしてくれる? それが国際標準だから」

 というわけで、『小悪魔』は姿と名前を変え(ひょっとしたら性別も変え?)、奈良アートプロム2010に出展することになりました。会場を回られたみなさんは、おそらく『小悪魔』の素晴らしい作品をご覧になったことでしょう。

 しかし、それがどの作家さんなのか、僕の口から明かすことはできません。
 なぜなら、それは禁じられているからです。
 NAP実行委員として。アートの『魔性』にとらわれた契約者として。


【おわり】


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 最後まで読んでくださった皆様(たぶんいないと思うけど)、ありがとうございました。この文章はもちろんフィクションです。そして、ごく限られた時間の中で最後まで書ききってしまうという、自分なりの実験であり挑戦でした。結果的に読むに堪えないものになってしまいましたが、今の僕の力はここまでなのでしょう。もっと実用的な情報が求められる会期中に、公式ブログにこういったものを載せた身勝手を、関係者、閲覧者の皆様に深くお詫び申し上げます。それではみなさん、さようなら。中村ケイタロウでした。


中村ケイタロウ(http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html

posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 14:33| Comment(3) | 【連載】 1300年の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月07日

〔1300年の記憶〕NAP本部の夜の夢(その3)


第1回第2回のあらすじ

「飢えた子供の前でNAPは有効か?」急にそんなことを考え始めた実行委員の『僕』の前に現れた『小悪魔』は、「奈良の本当の姿を見せてあげる」とか言って、『僕』を12世紀の奈良に連れ去る。そこは源平合戦の世界。平家の軍勢の首が六十数個、晒し首になっていた。そして……。
 ……いったいこれが公式ブログに掲載すべき記事なのか? もっとちゃんと、皆様にイベントをご紹介すべきではないのか? ひょっとしたらこれは、突然実行委員からアーティストに変身したつもりの『ナカムラ』による、ある種のゲリラ・パフォーマンス行為なのではないのか? ……などなど、数々の疑問が残る中、関係各方面からの声無き顰蹙を上目遣いでかわし、進行中のアート・プログラムのリアルな側面から限りなく遊離しつつ、誰も読まない連載は続く。



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 転害門の姿はほとんど今と変わっていないが、もちろんバス停は無い。
 国道369号も一条通りも妙にだたっぴろくて、小屋のような家がぎっしりと立ち並んでいた。
 冬の夕刻である。風が強い。路面には砂にまみれた血が点々と残り、門の前では、ムシロの上に転がされた数知れない怪我人(動かないのは死人だろうか)の間を、目を血走らせた犬がうろうろしている。
「戦いの後なんだな」と僕はつぶやく。首を見た後だけに、いくら血まみれの人間を見ても衝撃は薄い。
 ただ僕はぼんやりと考える。
 戦場の光景に、人間はこうも容易に慣れてしまうものなのか?
「今日は1180年12月28日。京都から派兵された四万余りの平家政権軍が、奈良坂と般若寺坂の防衛ラインを突破して、国道369号を南へ進撃してきたの。でも、あたしたち、ちょっと遅かったみたいね。もう、ほぼ勝敗が決まったちゃったところよ。奈良勢は崩壊しつつあるわ」
「じゃあ、これで戦争は終わり?」
「ううん、まーだ。平和はお・あ・ず・け」と、『小悪魔』は愉快そうだ。「戦争が終わりかけたときにこそ、無意味な殺戮が起こるの黒ハート キミたち人間ったら、いつもそうなんだから」

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 夜戦となって、大将軍平重盛が般若寺の門の前に立ち、その暗さに「火を出せ」と言ったところ、侍の一人が盾を割って松明にして、民家に火をかけた。
 ころは12月28日の夜8時ごろのこと。風も激しい。火元はひとつだが、吹き迷う風に、多くの寺院伽藍に吹きかけた。
 奈良側では、およそ恥を知り名を惜しむ勇者は、奈良坂で討ち死にし、あるいは般若寺で討たれてしまっていた。歩くことの出来るものは、吉野十津川の方へ落ちのびた。歩くこともかなわない老僧や、まっとうな修学僧、小年たち、少女たちは、もしや助かるかもしれないと、大仏殿の二階や興福寺の境内へ、われ先にと逃げこんだ。
 大仏殿の二階の上には千人余りが登り、敵が続いて登ってこないように、はしごを引き上げた。
猛火はそこに押しかけたのである。
(平家物語『奈良炎上の事』より、大意を拙訳)


 僕は『小悪魔』の見えない魔性の力に浮かび上がらされて、正倉院の屋根のうえに座らされた。
「ここだけは絶対に燃えないわ。あなたの時代でも、まだ残ってるでしょ」
 そこで僕は一部始終を目にしたのだ。

 眼下の東大寺には、現代よりもはるかに多くの建物が建ち並んでいた。すべて木造。校倉など、薪が積んであるのと同じだ。それらすべてを呑み込み、火は進む。天も地も紅に染まり。もはや夜か昼かも分からない。
 やがて、黒いシルエットで見えていた大仏殿が、マグネシウムのようにぱっと輝いた。
 二階の大屋根を突き破り、火柱が立ち上がる。大仏さまの御身の銅の還元反応のためか、青や緑の混じった不思議な色をした炎は、病んだ巨人を思わせた。
「ひとつの世界が、終わるの。『古代』という世界が、終わるの。大仏殿は奈良そのもの。奈良は古代日本そのものだったのよ。そして今、奈良が死ぬの。うふふ。素敵ね」

 
わめき叫ぶ声、焦熱、大焦熱。無間阿鼻、地獄の炎の底の罪人も、これほどのことはないだろう。


 平家物語にはそう書いてあるけど、「わめき叫ぶ声」を聞き取ることは僕には出来なかった。それは野獣の咆哮にしか聞こえなかった。どれが断末魔で、どれが大仏さまが融け落ちる音なのか。不分明な声は赤黒くどろどろに混じりあった油絵具の塊となり、いくらふさいでも耳の奥まで流れこんできた。

 それでも、ずいぶん長い間、大仏殿は灼熱の中に立ちつづけていた。

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 朝になって、『小悪魔』が僕を正倉院から下ろし、大仏殿の焼跡へ連れていった。
 真っ黒な炭と土と瓦が混じりあった瓦礫の山は、もとの建物の大きさと比べるとひどく小さく見えた。しかしその黒い堆積の中心に、今は赤黒い金属塊となった、首のない大仏さまがそびえ立っている。
「どんな時代にも、人は『平和』を口にするの。だけど、この1180年12月28日から、NAPが開催される2010年10月2日までの間に、地球上に戦争が存在しなかった日は、一日たりとも無いわ。ただの一日もよ。キミたち人間なんてこれっぽっちも信用できない、どうしようもないウソツキの人殺しよ。ま、あたしはキミたちのそんなところが好きなんだけどね。うふふ」
「でも……」
「キミたちは、いつでも『戦時下』に生きてるの。ただ、前線から近いか遠いかの違いがあるだけ。たった六十年ちょっと前線が遠のいているくらいで、アートとかプロムとか、ほんとにノンキで可愛いんだ、キミたちって」
 再び姿をあらわした『小悪魔』は、僕の肩に座って足をぶらぶらさせながら、可愛らしい声で音程の外れた歌を歌い始める。
るんるん楽しいなー、幼虫が死ぬなーんてー。楽しいなー、人間も死ぬなーんてーるんるん

 生きているものはみな、平家方の兵士らしかった。槍や弓矢をもった男たちが、焼跡をうろうろしている。棒で瓦礫をかき分けては、溶けた金銀を掘りだしている男も多い。炭だと思っていた物が、裏返すと女の体だった。跳び退いた兵士を、仲間たちが笑う。

 参道を南へ向かうと、中門も南大門も炭の山だった。登大路へ出ても、興福寺の境内を抜けて近鉄奈良駅のあたりまで来ても、焼跡は尽きなかった。人の姿をしたもの、すでに人の姿をしていないもの、朝日を浴び、みな命を失くしていた。餅飯殿通りにぽつんと焼け残った民家を戸口からのぞき込むと、死んだ父親にしがみついている、幼い女の子の背中が震えていた。生きている! と思った瞬間、隣の部屋から踏みこんできた甲冑姿の兵士が槍を振り下ろした。
 もう、僕はそれ以上見なかった。

 焼け残った元興寺では、現代とは比べ物にならないほど広い境内のあちらこちらに、生き残った人々が虚ろな顔で座りこみ、寺の下働きらしい人々が水と握り飯を配っていた。
 巨大な五重塔の足元に、僕はうずくまった。
「ここで問題でーす。飢えて死ぬ子供の前で、NAPは有効かしら?」
『小悪魔』の質問への答えは搾り出せなかった。自分の口から出ているとは思えないぼんやりした声で、僕は問う。
「……さっきのは、武士じゃないよね?」
「は? 誰のこと?」
「小さな女の子に……」
「ああ、あいつ? 鴨橋九郎範大っていう、れっきとした東国武士だよ。体育会系のいいヤツだよ。なんで?」
「武士が……侍が……あんなことするはずないよ……」
「うふふふ。可愛いこと言うのね。だからキミたちは『お花畑』だっていうの」
 僕は目を閉じる。何も出ない。声も息も涙も。これが「世界の本当の姿」なのか? これが、僕らの街の、「1300年の記憶」なのか?
「あら。もうすぐNAP本番なのに、やる気なくしちゃった? そろそろ、次の場所に連れていってあげようかな。今度はいよいよ、楽しいアートイベントよ」

(つづきます。会期中に終えたいものです)


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  中村ケイタロウ(http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html




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2010年10月03日

〔1300年の記憶〕NAP本部の夜の夢(その2)

前回のあらすじ

「痛みに満ちたこの世界において、芸術に意味などあるのだろうか」とか、急にサルトルみたいなことを考え始めたNAP実行委員の『僕』。そこに突然現れた『小悪魔』は、「世界の本当の姿を見せたげる」とか言って、メフィストフェレスよろしく『僕』をどこへやら連れ去ったのだった。
 飢えた子供の前でNAPは有効なのか? 『小悪魔』の正体は? 「世界の本当の姿」とは? これは記事なのか小説なのか? いよいよ会期が始まるというのに、実行委のブログを私物化して自分の表現活動の手段にしてはいないか? NAP本番がはじまったというのにナカムラは一体何を考えているのか? 謎は深まる


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 そして僕は猿沢池のほとりにいた。昼間だ。
 現実から目覚めたら、そこはもうひとつの現実だった。という感じ。
 でも、僕の知っている猿沢池とは、明らかに違う風景だった。
 黒く古色を帯びているはずの五重塔の柱に、赤々と丹塗りの朱色が残っている。いつも鹿が寝そべっている芝生には、高い土塀がそそり立ち、大きな二層の門がある。
 三条通りの坂を、牛車が上ってゆく。
 足元の地面は舗装されていない。池の護岸は古拙な石積みで、あちこち崩れかけていた。
「ここは、奈良なのか?」
「ここは奈良。旧い世界が、終わろうとしている」
『小悪魔』の声が、僕の頭の中から耳の奥にささやく。姿は見えない。
 池の反対側、五十二段の石段の下あたりに、人だかりが見える。烏帽子姿の老人や、僧体の男、市女笠の女。絵巻物で見るような風体の人々が、ざわめきながら、池のほとりに何十本と林立する、高い木の柱を見上げている。
 それぞれの柱の頂には、大きな里芋のような黒っぽい物がつるされていた。二十、三十、四十、数えきれない……。
「もうちょっと近づいて見なきゃ」と『小悪魔』が言う。「大丈夫。誰もキミには気づかないから」
 采女神社のほうから池を周って近づく途中で、僕は突然気づく。それが、何なのか。
 胸が冷たくなり、足が止まる。口が乾き、胃が硬くなる。
 数十本の柱の上に吊るされた物。
 それは切断された人間の首だった。
「ここは奈良。今は、1180年12月。『平家物語』くらい知ってんでしょ?」


 1180年5月、平家の独裁政権に対して決起した皇族・以仁王による反乱は、政権側の圧倒的な情報網と軍事力によってあえなく失敗に終わった。しかし、反乱側の大義に同調して気勢をあげる奈良の寺院勢力は、容易には静まらない。
 12月、事態の沈静化のため、平家政権は、妹尾兼康率いる500騎の軍勢を奈良に差し向けた。これは、奈良方の軟化をうながすための非武装の部隊だったが、それが裏目に出る。


「くれぐれも、僧兵が狼藉をしても、お前たちはしてはいけない。武装するな。弓矢も持つな」と言って派遣されたのだが、南都の僧兵たちはそんな通達があること知らず、兼康の部下六十余人を捕らえて一々首を斬り、猿沢の池のほとりに懸け並べた。
 平清盛は大いに怒り、「さらば南都をも攻めよや」と四万騎の奈良への派兵を命じた。
(「平家物語」巻五『奈良炎上の事』より大意を拙訳)


 首からしたたった血はもう黒く固まって、タールみたいに白木の柱にこびりついている。庶民らしく見える群集は、僕らの祖先なのだろう。まぎれもなく日本人の目鼻立ちだが、みんなひどく小柄だ。血色の悪い顔には、とりとめのない不安の表情が見えた。
「まだみんな、自分の不安に名前をつけることができないのよ。本当の不安には名前が無いの。キミたち人間は、いつだって同じ」
 ささやく『小悪魔』の声には、くすくす笑いがふくまれている。
「彼らは、知らない。これからこの街に何が起こるのか、知らない。自分たちが生きている時代が『平安時代』と呼ばれることも、知らない。でもみんな、意識の底の底で、知っている。今見ている世界がもうすぐ終わることを、知っている。平安時代が終わることを、知っている」
 平安時代の終わりに何があったか、僕は思いだそうとする。平安、鎌倉……いい国作ろう……。
「さ、今から、NAPメイン会場世尊院の前を通って、転害門の方へ移動ね。現代美術よりもっと刺激的なものを、キミに見せてあ・げ・る黒ハート。それが世界の本当の姿。期待しててね!」


(どう思われても)つづく
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   中村ケイタロウ(http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html

 
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2010年09月22日

〔1300年の記憶〕NAP本部の夜の夢(その1)


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 こんにちは。中村ケイタロウです。
 涼しくなりました。秋です。奈良アートプロム(略称:NAP)もいよいよ本番直前です。

 先週のある夜も、僕はNAP本部ビル5階オフィスに一人で残ってパソコンに向かっていました。
 秋の夜のオフィスは、淋しいです。昼間は大勢いるスタッフも、今はひとりも残っていません。
 画面には、美術作家のみなさんから寄せられた画像ファイルがずらり。色とりどりの美しいモザイクを描いています。
 机の上にはラジオ。城達也さんの「ジェットストリーム」が終わると、真夜中のニュースが始まります。

「××国で爆弾テロがありました」
「○○国では、○○将軍の戦争犯罪を裁く国際法廷が開かれています」
「◇◇国では、麻薬密売組織と政府軍の銃撃戦がありました」

 世界は、憎しみと痛みと悲しみに満ちている。

 そう気づいた瞬間、僕の中に小さな悪魔が宿ります。全てが色あせ、パソコンの画面がモノクロになったような気がしました。
 
 こんなに苦しみでいっぱいの世界で、美術に意味なんてあるんだろうか?

「うふふふふ」
 女の子の笑い声を背後に聞いたのはそのときだった。僕は椅子から跳びあがりそうになり、振りかえった。
「だれですか、あなたは。コテンパンダン展作家の○○さんですか」
「あたし? あたしは、この世ならぬもの。語り得ぬもの。アルファとオメガの間にいない女の子。たとえて言えば、キミの心の中に住む小悪魔って感じ?」
「なるほど、小悪魔ヘアに小悪魔メイク、小悪魔アクセに小悪魔ワンピ」
 首を傾けて微笑む『小悪魔』は、書類棚に腰かけて、ほっそりした脚を組んでいる。
 たしかに小さい。身長十五センチほど。でも意外に大人だ。二十七、八歳くらい?
「サルトルが言ったわ、『飢えて死ぬ子供の前でNAPは有効か』って。現代美術なんて、おなかいっぱい食べている先進国の、平和な時代の人間の道楽にすぎないんじゃないか。キミは今、そう思ってるんでしょ?」
「それは……」
「その通りよ。キミたち人間は、やたらとブンカとかゲージュツとか口にするけど、ほんとはそんなもの、全然大切に思っちゃいないんだ。そんなのただの遊び。ケーザイとかセージとかのために、簡単に踏みにじっちゃうんだ」
「い、いや、そうとも言いきれない」
 僕はやっとの思いで反論する。
「この奈良の街では、1300年もの間、古いものが守られつづけてきた。アメリカでさえ爆弾を落とさなかった。多くの人の意志が守ってきたおかげで、奈良公園は昔のままの……」
「何それ。鼻でフフンって笑っちゃおうかしら」
『小悪魔』は鼻でフフンと笑った。
「キミは、奈良の1300年の歴史を、平和なお花畑か何かみたいに思っているの? それでよく『1300年の記憶』なんて記事を書けるよね」
「べ、勉強はしてます」
 人間ですらない相手に、僕はなぜか敬語になってしまう。
「もうちょっとお勉強したほうがよさそうね。この世界のほんとうの姿を、キミに見せたげる」

 言うが早いか、『小悪魔』は書類棚から宙に舞い、あっけにとられた僕の眉間にダイブする。僕は激しいめまいをかんじる。全てが暗くなり、ログオフする感じ。
 モニターの画面が消え、蛍光灯が消え、窓の夜景が消え、机が消え、僕が消える。
 深い闇の中に。

(つづく)

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(本番直前になってあえて場違いな記事を書いてみようという試みの結果、この文章はなぜかフィクションです。NAP本部ビル5階オフィスなんて存在しません。城達也さんの「ジェットストリーム」の放送はずいぶん前に終了しました。怒らないでくださいね)


  中村ケイタロウ(http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html
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2010年09月12日

〔1300年の記憶〕敢えてクイズですー

 NAP開催直前ですが、空気を読まずに敢えてクイズでーす。
 ジャンルは、地理・歴史。

 以下の12のヒントから、ある都市の名前を当ててください。

(1)中国の隣の、細長い国に、その都市はあります。

(2)その都市は、中国文明の影響のもと、その国で最初の恒久的な首都として建設されました。

(3)そして、中国の影響を受けながらも、その国の個性的な文化の出発点となりました。

(4)仏教文化が栄えたその都市には、いまでのたくさんのお寺や神社があり、旅行者の人気を集めています。

(5)街の西側には、古代の宮殿の遺跡が地下に埋もれており、ユネスコ世界遺産になっています。

(6)その都市のかつての名前は、漢字で3文字。そのうちの1文字は、「城」です。

(7)現在の都市名を漢字で書けば、2文字になります。

(8)その国とアメリカとのあいだで激しい戦争がありましたが、その都市は奇跡的に昔の姿を残しています。

(9)旧市街の真ん中には、さまざまな伝説を持った池があります。水はあまり澄んでいませんが、風情のある水辺を、市民や観光客がいつも散策しています。

(10)旧市街には、細い道が迷路のようになった町並みがあります。近年では、古い町家を活用したおしゃれなカフェや雑貨屋さんも人気です。

(11)「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で知られる歌人、阿倍仲麻呂が、その都市で暮らしていたことがあります。

(12)西暦2010年、その都市は、遷都以来の節目の年を迎えました。


 さて、みなさん、どこの都市かわかりましたか?
 


 以下、解答編です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◆答えは、奈良です。
◆答えは、ハノイです。


(1)奈良は、日本国の都市です。
(1)ハノイは、ベトナム社会主義共和国の首都です。

(2)奈良は、日本で最初の恒久的な都でした。
(2)ハノイは、ベトナムで最初の恒久的な都でした。

(3)唐の影響を受けた天平文化が栄えました。
(3)李朝の仏教文化が栄えました。

(4)東大寺、興福寺、元興寺、唐招提寺、薬師寺、春日大社などなどたくさんあります。
(4)文廟、一柱寺、キムリエン(金蓮)寺、バクマー(白馬)神社、ゴクソン(玉山)神社などなどたくさんあります。

(5)平城宮跡は世界遺産です。
(5)タンロン(昇龍)遺跡は世界遺産です。

(6)かつての名前は、「平城京」
(6)かつての名前は「昇龍城」

(7)現在の名前は「ナラ」。漢字で書くと「奈良」
(7)現在の名前は「ハノイ」。漢字で書くと「河内」

(8)第二次世界大戦中、空襲をほとんど受けませんでした。
(8)ベトナム戦争中、空襲の被害を受けましたが、壊滅的ではなく、旧市街はほぼ昔のまま残っています。

(9)猿沢池があります。
(9)ホアンキエム湖があります。

(10)「ならまち」の町並みが人気です。
(10)「36通り」の町並みが人気です。

(11)阿倍仲麻呂は奈良出身です。上に挙げた歌は、外国で(中国、もしくはベトナム)で望郷の念をうたったもの。
(11)遣唐使として中国にわたった仲麻呂は、当時中国の支配下にあったハノイの「安南都護府」という役所に6年間つとめました。

(12)西暦710年、元明天皇が奈良を都にさだめてから、今年で1300年です。
(12)西暦1010年、李朝の太祖・神武皇帝がハノイを都にさだめてから、今年で1000年です。

 なんとも不思議な縁を感じませんか?

 Happy 1000th anniversary to Hanoi, from Nara!


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ハノイ「36通り」の町並み
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ハノイ「一柱寺」
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ハノイ「ホアンキエム(還剣)湖」

20100912084527
奈良「ならまち」の町並み
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奈良「東大寺 二月堂」
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奈良「猿沢池」


中村ケイタロウでした。

(中村ケイタロウ・センター http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html


posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 09:02| Comment(4) | 【連載】 1300年の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月16日

〔1300年の記憶〕かつて塔があった(後編)

(まず前編をお読みください)

 中村ケイタロウです。
 奈良市の旧市街に残る、古い塔の跡をたずねて歩きました。
 それにはもちろん理由があります。

 奈良というと、どうしても、1300年間変わらないものに注目が集まってしまいます。
 しかし、奈良時代が終わってから1200年余りの長い間、奈良の歴史は時を刻み続け、新たなものが生まれ、古い物が消えてゆく、激しい変化のプロセスが続いてきたのも確かなのです。
 だから僕は、「失われたもの」に目を向けてみようと考えました。
「塔」は、非常にシンボリックな建築物です。多くの塔が、何かを象徴しています。
 では、失われた象徴は、何を象徴するのでしょうか。






◆春日西塔跡


大きな地図で見る

 奈良国立博物館の敷地に、二つの塔の跡が並んで残っています。
 春日東塔と、春日西塔です。
 どちらの塔も、高さおよそ50メートルで、興福寺五重塔とほぼ同じ規模だったそうです。
 以前ご紹介した、南市町自治会所蔵の春日宮曼荼羅図にも、そのいちばん下の左側に、二つの塔が仲良く並んでいる様子が描かれています。一の鳥居をくぐった内側にありますから、春日社の境内にあったことがわかります。
 神社の境内に五重塔なんて、現代の僕たちから見れば少々奇妙ですが、神仏習合が当たり前だった中世には不思議でもなかったのでしょう。
 明治の廃仏にいたるまで、春日大社と興福寺は、長らく一体でした。
 
 二つのうち、先に建てられたのは西塔でした。
 1116年に関白・藤原忠実によって建てられたため「殿下の御塔」と呼ばれた塔は、1180年の兵火でいちど焼けた後再建され、1411年に落雷で焼失するまでこの地にありました。

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 国立博物館の建物の南側に、基壇と礎石が残っています。









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 塔は、高さそのものを主眼として建てられたものでなければならない。
 土地の効率的な利用を目的としたものは、「塔」ではなく、「ビルディング」です。
 
 東京タワーが「塔」であるとしたら、それが電波塔だからでしょう。電波塔にとって、高いことは、その機能において、本質的に重要ですから。

 宗教的な塔も、そうです。寺院の仏塔や、教会の鐘楼や、モスクのミナレットが「塔」であるのは、その高さが神や仏の聖性を象徴し、宗教の権威を示すからでしょう。

 バベルの塔は?

 ただひたすらに高さだけのために高いバベルの塔こそ、最も純粋な塔であると言えるかもしれません。









◆春日東塔
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「殿下の御塔」と呼ばれた西塔に対して、二十四年後に鳥羽上皇によって建てられた東塔は「院の御塔」と呼ばれました。
 二つの塔はともに1180年の兵火にかかり、再建。
 そして二百数十年後、落雷による火災で灰になりました。

 博物館の明治建築と、木立と、芝生と、獣たち。奈良が積み重ねてきた分厚い時間の層の上に、静かな調和が生まれています。

 ここに再び塔を建てて欲しいとは、僕は願いません。







 全地は一の言語一の音のみなりき
 茲に人衆東に移りてシナルの地に平野を得て其處に居住り
 彼等互に言けるは去來甎石を作り之を善く爇んと遂に石の代に甎石を獲灰沙の代に石漆を獲たり
 又曰けるは去來邑と塔とを建て其塔の頂を天にいたらしめん斯して我等名を揚て全地の表面に散ることを免れんと
 ヱホバ降臨りて彼人衆の建る邑と塔とを觀たまへり
 ヱホバ言たまひけるは視よ民は一にして皆一の言語を用ふ今旣に此を爲し始めたり然ば凡て其爲んと圖維る事は禁止め得られざるべし
 去來我等降り彼處にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずることを得ざらしめんと
 ヱホバ遂に彼等を彼處より全地の表面に散したまひければ彼等邑を建ることを罷たり
 是故に其名はバベル(淆亂)と呼ばる是はヱホバ彼處に全地の言語を淆したまひしに由てなり彼處よりヱホバ彼等を全地の表に散したまへり

(『旧約聖書』創世記)


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 聖書などの神話は、人間のさまざまな心の動きや行動を、シンプルな原型として私たちに示してくれます。
 バベルの塔は、人間の偉大さを示すものとして建てられようとしました。
 神が人々の言語をバラバラにすることによって塔の建設を阻止した、という聖書の物語は、とても示唆的です。
 言語は人間の理性の表現であり、組織的な協調を可能にするものです。他の動物と人間とのちがいを示す、人間性そのもののあらわれだと言えます。

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 人類の歴史をかえりみると、メソポタミア文明やマヤ文明の人々が競って建てたピラミッドをはじめとして、エッフェル塔や、東京スカイツリーに至るまで、塔には常に、技術や権力や経済力を誇示するものという側面がありました。

 地球の重力やら、エネルギー保存の法則やら(よく分からんけど)を考えると、垂直方向に建造物を立ち上げていくことは、人間の理性と手業によって、自然の法則に抗うことだといえます。

「塔」は、人間の理性、人間の文明そのものの形象化なのです。

 だから、たとえ、教会の鐘楼や仏塔のように、宗教的なシンボルとしての塔であっても、塔を建設する人間の行為そのものは、その本質において、天に逆らうことであり、結果的に、天に唾することであるといえるのではないでしょうか。

 高く積み上げられた位置エネルギーの賭け金。その支払いを、神々はいつか必ず迫ってきます。彼らには、永遠の時間と、エントロピーの増大という武器があります。
 だから、どんな塔も、いつか必ず崩れ落ちるのです。

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 奈良の街のあちこちに残る、古い塔のあとは、日本で最初の文明を担ったこの都市が生きてきた、1300年の歴史そのものの痕跡です。
 その不在は、自然の法則に沿って消滅していった先人の営為の、その必然的なはかなさ故の輝かしさを、私たちに教えてくれます。

 失われた塔は、失われているからこそ、私たちの歴史そのものを象徴していると言えるのではないでしょうか。




【おわり】




 中村ケイタロウ

(『中村ケイタロウ・センター』http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html


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2010年03月24日

〔1300年の記憶〕かつて塔があった(前編)

 塔の跡ばかり訪ねてみようと思い立ったのには、もちろん理由があります。

 1300年におよぶ悠久の歴史を有する奈良。どうしても、古い物が「残っている」ことにばかり注目が集まりがちです。
 もちろん、正倉院や大仏さまの偉大さを考えると、それもうなずけるのですが。
 しかし、現在私たちが見る奈良が、決して1300年前そのままではないことは、言うまでもありません。奈良は凍結保存された平城京ではありません。わたしたちは、奈良の街や公園を歩きながら、一足飛びに天平の昔を体験することはできないのです。
 宮廷が京都へ去ってから今日まで1200年余り、奈良はずっと歴史の舞台でありつづけてきました。その長い時間は、新しいものが数多く生まれ、多くの物が失われていった、激しい変化のプロセスでもあったのです。

 今回、僕は、「残っていない」もの、失われたものに目を向けてみたいと思いました。そして、日本建築の中でもとりわけシンボリックな、「塔」をその対象にすることにしたのです。

 五重塔のシルエットはしばしば、京都や奈良のような古都の象徴として扱われます。
 だとすれば、歴史の中で失われた象徴の痕跡は、いったい何を象徴するのでしょうか?





◆元興寺五重塔跡


大きな地図で見る
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 奈良町の真ん中にそびえ立っていた五重塔は、信じられないことに、約73メートルもの高さがあったそうです。江戸時代の絵図には、「海内無双大塔」と書かれています。日本一の五重塔は、奈良の街中からはもちろん、奈良盆地北部のどこからでも見えたのではないでしょうか。
 奈良時代に建てられ、1200年の時を生き残った巨塔は、明治維新を目前にした1859年に焼け落ちます。写真が残っていてもおかしくない時代ですが、残念ながら伝わっていないようです。
 現在も残る礎石が、塔の頑丈さをしのばせます。
 塔跡は、世界遺産として有名な現在の元興寺極楽坊の境内ではなく、ひとつ南の町内にひっそりと残る、華厳宗の元興寺にあります。もちろんもともとは同じお寺の一部だったわけで、往時の境内がいかに広大だったかがわかります。








 塔とは何でしょうか?
 高い建物?
 だとしたら、「高い」とは何メートル以上?
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 ↑奈良のランドマークである興福寺の五重塔(室町時代)は、高さ約51メートル。

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 ↑北葛城郡広陵町の百済寺三重塔(鎌倉時代)は、高さ約23メートル。

 では、たとえば、そのどちらをも上回る60メートルの高さを誇る建物があったとしたら、それは「塔」と呼ばれうるでしょうか?
「高いんだから塔でしょう」って?
 でも、もし、その建物の横幅が470メートルあったとしら?

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 ↑これは、塔ではありません。

 ある建築物が「塔」と呼ばれるには、垂直方向に伸びてゆく形態が必要であるといえるでしょう。







◆東大寺七重塔(西塔)跡


大きな地図で見る
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 これもまた信じがたいほど巨大な塔だったようで、高さは70メートルだったとも、100メートルだったともいいます。
 奈良時代に建立されましたが、早くも平安時代に焼け落ち、その後再建されることはなかったそうです。
 この場所に塔が存在したのは200年足らず。その後、実に1000年以上の長きにわたって、ここには何も存在しなかったことになります。
 しかし、塔の基礎だったこの土壇の質量感は圧倒的です。1000年の不在が、なんと巨大な存在感を有していることか。
 驚くばかりです。







 再び、塔とは何でしょうか?
 都心に近年増えている超高層マンション。あれは塔でしょうか?
「タワーマンション」というぐらいですから、塔であるとする立場もあるかも知れない。

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 しかし僕は、こういったものを「塔」と呼ぶことには抵抗を感じます。なぜだろう?

 たぶん、居住を目的とした建物の機能からして、垂直方向への高さは本質的には重要でないからでしょう。
 あれは、垂直方向にそびえたっているというより、平面的な住居を、縦に何層も積み重ねたものに過ぎない。







◆東大寺七重塔(東塔)跡


大きな地図で見る
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 東塔もまた、西塔と同様に巨大なものであったはずです。
 火災などで何度か失われましたが、二度まで再建されました。最終的には室町時代に焼失し、それ以来、姿を消しています。
 塔跡は、木々に囲まれた芝生です。はっきりそれと分かる土壇が残っていますが、圧倒的な質量感のあった西塔とは異なり、なだからかで優美な姿をしています。そしてひっそりと静かです。
 大仏殿から間近ですが、観光客も、修学旅行生もいない。まるで、深い森の中のようでした。
 僕と、鹿だけ。
 細かい雨が降っています。





【後編へ続く】



中村ケイタロウ
(『中村ケイタロウ・センター』http://home.att.ne.jp/blue/nakamu1973/index.html


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2009年07月26日

〔1300年の記憶〕奈良の街、縦のものを横に。そして縦に。(その三・最終回)

その一その二のあらすじ】
 奈良の旧市街って、東へ行けば行くほど「奈良っぽく」なるんだよなあ。三条通りを軸に、東へ向かうほど始原に近付いてゆく構造があるみたいだぞ。江戸時代の地図や、中世の春日曼荼羅でも東が上になってるし、奈良では東が「上」もしくは「奥」なんだ、なんて考えていると、思わぬ反論が。「でも、古代の平城京は、南が正面だよ」
 確かにね……。

「平城京は、710年に日本の首都として建設されたの。時々、平城と平城をごっちゃにしてる人がいるけど、ちがうんだよ。平城っていうのは、皇居と政府官庁の機能を持った宮殿のことで、平城の一部に過ぎないの」
「近鉄電車から見えるあのだたっぴろい野原は、『平城跡』ですからね」

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(平城宮跡。右は、平城宮の一部で、復元された東院庭園)

「そう。都市としての平城京全体はもっと広かった。東は奈良ホテル、西は西の京自動車学校、南はニトリ奈良南店、北は奈良ファミリーぐらいまでを含む範囲だったわけ。こんな感じね」

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(平城京)

「見ての通り、天皇の住まいであり、政治の中枢でもあった平城宮は、都の北端にあったの。その平城宮の正門が、南側にある朱雀門」
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(朱雀門)

「そこから真南に向かって、幅74メートルのメインストリート、朱雀大路が、都の正面玄関である羅城門まで伸びている、っていうわけ。朱雀門や朱雀大路の『朱雀』っていうのは、古代中国で方位をつかさどる四神の一つで、南を意味するのね」
「ああ、朱雀って、高松塚古墳の壁画にもありましたね」
「キトラ古墳だよ。嘘言わないでよ。高松塚古墳で朱雀の壁画は発見されてないよ」
「……」
「とにかく、1300年前に建設された平城京は、明らかに、南が正面、北が上(そして奥)という、南北を軸とする都市だったわけ。あなたの言う『中世マンダラ都市』なんて、ここには影も形もないよね?」
「しかしですね……」
「平城京が南を正面にしていた理由ははっきりしてるよ。中国では紀元前の昔から、『天子南面』といって、皇帝の玉座も、宮殿も、都も、全て南を正面にするの。平城京もそれを取り入れたんだ。直接のモデルになったのは唐の長安や洛陽だと言われているけど、中国の都市の基本パターンね」

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(現在の洛陽)

「今の首都、北京も基本的には同じ構造だよ。有名な天安門は、紫禁城の真南の中軸線上にあって、皇城の正門にあたるわけ。オリンピック競技場も、この軸に沿って建てたそうだよ。一貫してるね」
「中国人らしいですね」
「あなたの考えで言えば、奈良は中世になって軸が90度回転したことになるけど?」

 そうなのです。遷都1300年祭に水をさすつもりはありませんが、古代の平城京と現在の奈良との間にはひとつの断絶があります。それは、平城京が首都としての機能を失ったことによるものです。
 784年、桓武天皇は長岡京へ都を移し、さらにその10年後、平安京を建都します。奈良は国家の中心としての座を永久に失ったのです。
 平城宮は放棄され、都市全体が衰退します。864年の報告では「都城、道路、変じて田畝となる」(『日本三代実録』)とのことで、奈良の都は百年を待たずしてすっかり田園に帰ってしまったことになります。

 しかし、奈良に残されたものもありました。寺院と神社です。
 国家的寺院の東大寺や、藤原氏の庇護を受けた興福寺と春日大社など。これらを維持運営し、貴族でもあり領主でもある宗教家たちの生活を支えるためには、多くの人々の力が必要でした。それらの人々が暮らすコンパクトな宗教都市として、奈良はその都市構造を根本的に組み変えられ、小さく生まれ変わったのです。そしてその時、古代から(おそらく平城遷都以前から)崇拝されていた御蓋山(春日山)を通り、街を貫く東西軸が、あたらしい都市の中心軸となったのでしょう。これこそが、今私たちが知っている奈良の誕生だとは言えないでしょうか?
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(中世から江戸時代にかけての奈良)

「中国文明の普遍主義に代わって、その土地が本来持っている固有の構造が現れてきた、っていうことでしょ? 要するに」
「そ、そうですよ。分かってたんじゃないですか」
「だって、そりゃそうでしょ。マンダラっていうのは深層構造の反映なんだから」
「そうなんですか?」
「知らない。それらしく聞こえた?」
「……」
「で、近代になって、新しい普遍主義が西洋からやってきて、奈良の地図は再び北を上にして描かれるようになったわけだけど。要するにあなたは、土地の固有性に則って、奈良の地図は東を上にすべきだって言いたいんだ?」
「いえ。そうじゃないんです」

 そうじゃないのです。現代の都市には様々な文脈があり、経路があり、軸があります。南を上にする観点だって、西を上にする観点だってあり得ます。地図を斜めにしたり、裏返して見たりしてもいいかもしれません。様々な普遍主義と個別性とのせめぎあいの中で、ひとつひとつの軸を読み解きながら、常に新しい切り口を模索し続ける。1300年の古都において、そのような姿勢をとろうと試みること。それって、奈良アート・プロムに求められているものの一つなんじゃないでしょうか?

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(現代の奈良)

「うーん、綺麗にまとめたつもりかも知れないけど、無理矢理アートに結び付けてない? ちょっと無理があるみたい」
 いいんですよ。黙っててください。まったくもう。だいたい、あなた誰なんですか……。

(おわり)



DSC_2218-2mini.jpgDSC_2218-3mini.jpgDSC_2218-4mini.jpg
(古代平城京から中近世の奈良、現代奈良へ)
posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 22:07| Comment(2) | 【連載】 1300年の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月17日

〔1300年の記憶〕奈良の街、縦のものを横に。そして縦に。(その二)

前回のあらすじ】
 奈良の旧市街の地図を見ていると、「奈良っぽい」ものの分布が東に片寄ってる気がします。地図を90度回して、東が「上」または「奥」だと考えたほうがしっくり来そうです。人の暮らす街から、大陸伝来の仏教の世界へ、そして日本固有の神道の世界から、原生林の自然界へ。三条通りを東へ進めば進むほど、過去へと、始源へとさかのぼってゆくのでは?
 とか考えてるうちに、ちょっと思い出したことがあったのでした。

 僕が思い出したもの。それは江戸時代に出版された奈良の市街図でした。下のリンク先をご覧ください。

  図1:和州南都之図 ( 宝永6[1709]年)
  図2:和州南都之図 ( 安永7[1778]年)
  図3:和州奈良之図 (天保15[1844]年)
  図4:和州奈良之絵図(元治1[1864]年)

 いずれも東が上になっていて、上部には春日山や若草山などが風景画のように描かれています。そして三条通りが中心軸となっていることは、たとえば図2の地図の折り目が三条通りとぴったり重なっていることからもお分かりになると思います。
 同様のものは、明治になっても作られつづけています。

  図5:大和国奈良細見図 (明治7[1874]年)
  図6:奈良明細全図(明治23[1890]年)
  【*地図のリンク先はいずれも、奈良県立図書情報館のサイト内です】


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(奈良・三条通り)


 これらの地図は、昔の人々が奈良の街をどのようにイメージしていたかを示していると言えそうです。江戸時代から明治の中ごろまで、奈良は、三条通りを軸として、東を上(あるいは奥)とする構造を持った街として認識され、地図もそのように描かれてきたのです。

 では、そういった認識は、いつ、どのようにして生まれたのでしょうか。
 その源流は、おそらく中世にさかのぼります。それを示唆する美術作品を見つけました。春日曼荼羅(かすがまんだら)図です。おお、やっとアートにつながった。

  図7:春日宮曼荼羅図(14世紀) *拡大できます
  図8:春日宮曼荼羅図(鎌倉時代 13世紀・MIHOミュージアム蔵)
  図9:春日宮曼荼羅図(鎌倉時代・南市町自治会蔵【重文】) *拡大できます
  図10:春日鹿曼荼羅(鎌倉時代 13〜14世紀・奈良国立博物館蔵)
  図11:春日社寺曼荼羅図(鎌倉時代・大阪市立美術館蔵)

 春日曼荼羅図は、中世日本で、春日信仰の儀礼のために盛んに製作された宗教画です。春日大社の景観を描いた「春日宮曼荼羅」、神鹿を中心に描かれた「春日鹿曼荼羅」、春日大社と興福寺をあわせて描いた「春日社寺曼荼羅」などさまざまな種類があり、多くの作例が伝わっているそうです。

 図7の例を見ていただくといちばん分かりやすいかもしれません。まず、いちばん手前の中央には一ノ鳥居が見えます。そこから上(つまり東)に向かう参道(すなわち三条通り)に沿って視線を動かしてゆくと、左側に春日大社の東塔と西塔(現存せず。国立博物館の南側に跡が残っています)があります。その上を見ると、春日大社の荘厳な社殿。さらに向こうには、春日山(御蓋山)があり、頂には神鹿がいます。そしてその奥は、原生林に覆われた奥山。上空には月(日?)が昇り、紺碧の空には神々の姿が。
 図8図9の作例も、基本的に同じ構成です。これこそ、前回述べた、「東へ向かうほどに始源にさかのぼってゆく軸」としての三条通りを視覚化したものに他ならないのではないでしょうか?


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(御蓋山だと思う。たぶん。自信ないけど)


 図10は「春日鹿曼荼羅」です。中央に大きく描かれた鹿の背中には神々の姿があり、鹿が神の乗り物であることを表現しています。やはり手前(=下)には一ノ鳥居、奥(=上)には御蓋山と月(日?)があり、春日大社を象徴的に表現したこの図像全体が三条通りの東西軸に沿っていることを示しています。

 図11の例は「春日社寺曼荼羅」です。興福寺と春日社があわせて描かれています。藤原氏の氏寺である興福寺と、氏神である春日大社は、中世には一体のものでした。この図もまた、三条通りに沿って西から東へと視線を導いてゆくものであることは言うまでもないでしょう。


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(春日大社塔跡。東塔か西塔かは忘れた)


 安田次郎氏によると、奈良の旧市街では中世以来、各町内でこのような春日曼荼羅図を祭ってきたそうです。なるほど、図9の曼荼羅図は、南市町の町内会の皆さんが保存していらっしゃるものです。
 このような図像を信仰の対象とし、儀礼のたびに目にしていた中世・近世の奈良の人々が、自分たちの町全体をこれらの曼荼羅図の構成に沿って認識するようになったと考えるのは、ごく自然なことではないでしょうか。

 本来の意味での曼荼羅(サンスクリット語:mandala「本質を持つもの」)とは、仏教の宇宙観を模式的に視覚化したものです。神道の春日曼荼羅は、仏教の本来の曼荼羅とはあまり似ていませんが、ひとつの信仰の世界観を図示するものだとは言えるでしょう。

 春日大社の原型は、御蓋山を信仰の対象とする祭祀の地だったそうです。そしてその御蓋山と春日大社に真西からアプローチする道が三条通りでした。そのような地形が春日曼荼羅の世界観を育み、その観念が現実の街にフィードバックされるという形で、中世以降の奈良の街が作られてきたのではないかと僕は思います。そう考えると、逆に奈良の街そのものが春日信仰の宇宙観を実体化した立体曼荼羅、中世マンダラ都市とでも言えるかもしれません。
 そしてそれは都市の遺伝的記憶となって、現代にまで引き継がれているのではないでしょうか。明治の廃仏で多くの寺院が破却された際も、その跡地は農地や市街地にはされず、奈良公園や国立博物館として整備されました。今日に至るまで、春日の森を伐採して工場や住宅地をつくろうなどとは誰も考えなかったはずです――

 ――などと、ここまで考えたところで疑問の声が。

「でもさ、平城宮跡って、三条通りとも御蓋山ともあんまり関係ないよ?」
 そうですか?
「だって、今復元してる大極殿も、朱雀門も南向きに建ってるでしょ。東大寺も南向きだよね」
 余計なこと知ってますねえ。あなた誰ですか。
「それに、平城京には一条大路から九条大路まで……いいえ、ひょっとしたら十条大路まであったんだよ。三条だけがそんなに特別なんて、不自然じゃない」
 ……そうですね。そうなんです……。「1300年の記憶」と銘打っている以上、中世で終わってはいけない。古代の平城京のことも考えなきゃいけません。

 ということで、また次回に続きます。長くなってマジすみません。


【7/20付記・現代の地図でも、東が上になっているものをみつけました。奈良市観光協会で発行なさっている『奈良公園ウォークマップ』です。*リンク先はpdfファイルです


posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 23:46| Comment(3) | 【連載】 1300年の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月11日

〔1300年の記憶〕奈良の街、縦のものを横に。そして縦に。(その一)

 こんにちは。中村ケイタロウです。

 先週の日曜日の朝、クリームパンを食べながら、奈良についてもっとよく考えてみようと思って、ぼろぼろになった旧市街の地図を、縦にしたり横にしたりして見ていたら、ちょっと気づいたことがあって、ここに書かせていただこうと思い立ちました。
 奈良の旧市街って、なんだかバランスが悪いんですね。左右のバランスが。
 東のほうに、いろんなものが偏ってませんか。たとえば、大仏さん、国立博物館、若草山、春日大社、五重塔、鹿たち……(地図)。
 端的に言えば、「奈良らしい」もの。旧市街では、東側に行くほど「奈良らしさ」が深く、濃密になっていくような気がします。

 この街を訪ねる人々は、たいていの場合西から入ってきます。仮にJR奈良駅を正面入り口として、メインストリートである三条通りを東へ歩いてみましょうか。
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 駅前から、三条通りはまっすぐ真東へと伸びています。みごとな直線です。道路の拡幅をひかえて、最近は工事中の建物が多いけど、にぎやかな商店街が続きます。ゲーセンも銀行も映画館もあります。そして東向商店街を過ぎたあたりで、右に猿沢池、左に興福寺の堂塔が見えてきます。
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 興福寺と菊水楼さんの間を過ぎ、最後の信号を渡って一ノ鳥居をくぐると、通りは奈良公園の木立の中の参道となって、さらにまっすぐ東へ向かいます。左にはネオ・ルネサンス様式の国立博物館(明治の宮廷建築家、片山東熊の設計で、これはこれで興味深いんだけど、今回はパス)。そして、木々の間から鹿たちが姿を見せます。
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 遠く左手に東大寺を見ながら(いや、実際は木が茂ってて見えないけど)東へ歩みを進めます。各時代の石灯篭が並んでいて、興味は尽きません。やがて、ずっと直線だった参道は初めて右へ曲がり、春日大社にたどり着いたところで終ります。
 気づくと、そこはもう街ではなく森の中。さらに東を見れば春日山があり、その彼方には奥山の聖なる原生林が広がっているのです。
(図)
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 人が暮らす街から、遠い大陸の真理を伝えた仏たちの空間へ。そして、日本の地に根ざした神々の社の背後には、縄文以来の自然の世界が控えている。さらにその彼方から、日や月が昇る……。三条通りという軸を東へ向かうほどに、私たちは過去へ、始源へとさかのぼってゆくことになるのかもしれません――とまで言ってしまうと、さすがにちょっとうさんくさいですけど。

 ともあれ、三条通りを東へむかうほど「上」である、あるいは「奥」である、という感覚は、奈良の旧市街を歩く多くのひとびとが共有しているのではないでしょうか。「三条通りを上がったところ」といった言い方を耳にしますし、実際、通りはゆるゆるとした登り坂になっています。もうちょっと広い目で見ても、近鉄電車も、阪奈道路も、三条通りとほぼ並行して、朱雀門のそばを通って西から奈良へ入ってきます。
 とすると、奈良の地図は、東を上にして見るべきなのかもしれません。「地図は北が上」なんて、近代人の常識に過ぎません。どうせ、バッハみたいなカツラをかぶってた時代のフランス人かイギリス人あたりが決めたんでしょう。

 と、ここまで考えたところで、ちょっと思い出したことがあったのでした。

(なんかまだアートと全然関係ないですけど、長くなりそうなので、次回に続きます。すみません)
posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 20:35| Comment(2) | 【連載】 1300年の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

〔1300年の記憶〕はじめまして、中村ケイタロウです

 みなさんこんにちは。はじめまして。中村ケイタロウともうします。ブログのテキスト執筆に参加させていただくことになりました。
 書くことが好きで、日頃は芸術行為としてのウソ話(小説とも言います)をせっせとこしらえております。ですから本当のことを上手に書く自信はあまり無いのですが、なるだけ客観的で面白い記事を書けるよう努力するつもりです。現代アートについてはずぶの素人ですが、まずはどうか微温的に見守っていただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

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 さて、これから、NAPについて、奈良やアートについて書かせていただくつもりなのですが、じつは先日の第8回全体会議の折に「平城遷都から現代に至る奈良の歴史・記憶を、アートの視点から掘り起こす」というお題をいただきました。えーと、難しいです。力が及ぶかどうか分かりませんが、できる限りその線に沿って考えていこうと思います。

 今回は手始めに、奈良の地理や歴史について、私が頼りにしている五冊の本をご紹介いたします。みなさんご存じかもしれませんけど、ご参考までに。

1.奈良地理学会編『大和を歩く −ひとあじちがう歴史地理探訪』奈良新聞社 2000年
 タイトルや装丁は地味だけど、好奇心を刺激してくれる本です。通常のガイドブックよりもぐっと深く踏みこんで、古代や中世の史跡はもちろん、近現代の歴史や産業などについても多角的に紹介しています。目次を眺めるだけでも、「大和の温泉」「茶粥と柿の葉ずし」「大和の鉄道発達史」「奈良県の言語文化圏」「アメリカ人地理学者のみた戦前の奈良盆地農村」等々、多種多様で面白そうでしょう? 74人の執筆陣はみんな研究者。内容も専門家ならではの突っ込んだものですが、文章は一般向けで読みやすいです。強いて難を言えば、持ち歩くには少々大きいことでしょうか。

2.安田次郎著『中世の奈良 都市民と寺院の支配』吉川弘文館 1998年
 古代と比べて注目度の低い、中世の奈良をとりあげた本です。
 平安時代から戦国時代に至るまで、東大寺と興福寺によって支配されていた、中世都市・奈良。動乱の時代を生きる町の人々は、祭礼への参加や事件への対応を通じて次第に結束し、旧市街全体の市民による自治組織「奈良惣中」を築き上げてゆきます。
 本書によると、餅飯殿、椿井、下御門、小西、三条、今辻子などなど、旧市街の町名のほとんどが室町時代の資料にすでに登場しているのだそうです。はるかな歴史の彼方にある平城京と比べて、中世の奈良は、今の私たちの奈良に直接つながっているのですね。
 この本、奈良の人が読んでこそ、ただの歴史書以上の感動があるのではないでしょうか。

3.和田萃、幡鎌一弘、山上豊、安田次郎、谷山正道(共著)『県史29・奈良県の歴史』山川出版社 2003年
 歴史と言えば、山川です。高校時代に山川の歴史教科書のお世話になったという方は多いのではないでしょうか。古代から現代に至る大和国=奈良県の通史として、分かりやすくまとまった本です。このまま教科書として使えそうです。考えてみると、日本の歴史は学校で習うけど、郷土の歴史はほとんど習いません。奈良って、日本史の教科書では最初の方にしか出てこないんですよね。

4.奈良女子大学文学部なら学プロジェクト編『大学的奈良ガイド −こだわりの歩き方』昭和堂 2009年
 雰囲気は『大和を歩く』に少し似ていますが、こちらはガイドブックと言うより読み物的。奈良女子大の先生たちが、それぞれにいろんなテーマを取り上げています。話題は「チェーン店の分布」「中世の奈良とローマ」「消えた川の記憶」「奈良町奉行所の生活」「レジャーランドと奈良」などなど、ユニークなものばかりです。
 横浜から引っ越していらっしゃった人類学者の武藤康弘准教授という方が、「アーバンライフと田舎暮らしのちょうど中間に位置する奈良での生活」とお書きになっているのを読んで、なるほどなあと思いました。奈良に住むのって、贅沢なことかもしれません。

5.本渡章『奈良名所むかし案内』創元社 2007
 江戸時代、1791年に出版された観光ガイドブック、『大和名所図会』のおいしいところを紹介し、解説をつけた本です。オリジナルに掲載されていた木版画の挿絵が、数多く転載されているのが楽しいです。挿絵の多くは名所を俯瞰で見下ろす構図で、航空機も高い建物も無かった時代に、上からの景観をこれほど正確に描くことのできた画家(竹原春朝斎という人です)の技量には感心します。五重塔よりも上から法隆寺全体を見下ろしたりしてるんですよね。実際にこの視点に立つのは不可能だったはずです。
 200年前の様子なのですが、唐招提寺や東大寺、猿沢池周辺など、多くの観光スポットは現在でもほとんど変わっておらず、奈良の「変わらなさ」に驚かされます。そして、奈良時代の遺産が今日に伝わっているのは、その後の1200年間ずっと守られつづけていたからこそなのだと、改めて実感させられるのです。


 ……というわけで、このような本を片手に奈良周辺をうろうろしつつ、NAPのコンセプトにつながり得るような材料を見つけてゆければと思っております。もしブログの主旨から外れているようでしたら、容赦無くご指摘ください。よろしくお願いいたします。

  中村ケイタロウ
posted by 実行委員会 中村ケイタロウ at 18:08| Comment(0) | 【連載】 1300年の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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